時代についていくべきなのか

パソコン教室には、シニアのお客様はほぼいなくなった。とはいえ、数名、昔から通ってくださっている方がいる。そのうちの一人が、以下のようにぼやいていた。

「時代についていけない」
「覚えたと思ったらすぐに古くなっちゃうじゃない」

その発言を聞いていて、なぜそう思ったかについて思いを巡らせる。

もしかしたら、覚えるためにがんばったから、次の新しい技術=努力が無駄になる→新しい技術を受け入れたくないと感じる のではないか。

もし、その方が時代について行きたいと思うのであれば、と仮定する。
一つの対処法としては、頑張らなければいいじゃない。と思う。
頑張って覚えるから失うときに無駄に感じるのであれば、少しずつ遊びながら覚えて自然に使えるようになって、少しずつ進化していくという選択を取ることで時代について行けるようになるのか、と考える。

さらに、時代についていきたい、という仮説から対処法を考える。

逆に、時代についていこうと思わなければいいのでは、とも思う。一生懸命時代を意識しているから、時代に振り回されているのだ。どうせ万物は古くなる。だから、時代を拒否するのではなく、時代に迎合するでもなく、新しい何かが来たなと思ったらとりあえず手にとって見て、しっくり来れば使ってみればいいし、しっくり来なければ使わなければいいし。くらいのゆるさで生きるのはどうだろうか。「地代についていきたい」という要望は満たさないが落ち着くことができないだろうか。少なくとも、ぼやかなくなるのではないか。

では、どういう人が「時代についていけない」ことに罪悪感を感じているのだろうか。

これもまた仮説。今自分の持っている技術なり知識なりに固執している人ではないだろうか。固執しているから小さな違いでも、受け入れがたく感じるのではないだろうか。新しい時代がすべて的に見えるのではないだろうか。そういう人は時代に対して構え過ぎているのではないだろうか。

新しいものが好きな人は、そういう性格なのだから、新しい物好きでいいと思うのだ。他にも、マニアックなものが好きな人は、それでいいと思う。それが自然体だ。しかし、時代に脅迫されたかのような「時代についていかなくてはいけないと思いこむ病気」の人がいる。

「時代にはついていかなくてはいけないのです。時代についていくためにこんなに努力しています。時代について行くために努力している私を褒め称えてください。素晴らしいと思ってください」
他者の目を気にし過ぎなのか、承認欲求が強いのか、そういう発言が見られるともっと肩の力を抜けばいいのにと思わないでもない。見ていて、胸が苦しくなる。自然体が増えれば、心地よさを追求すれば、人はもっと人に寛容に慣れるような気がする。

どうでもいいが、私はクリオネでありたい。波に適当に流されて、天使のようにに見せかけて食べるときの顔は怖いし、肉食だ(笑)。
時代は意識すれど、固執せず、新しいものにも適度な興味を見せながら、振り回されず、適当に流されたい。そういう、年のとり方をしたいと思った。今日もまとまらない話。