「使いこなす」の呪縛

「私、そこまで使いこなしてないもん」
「そこまで使いこなせないから高機能なものは要らない」
この手の言葉を加齢が進んだ人からよく聞く。
(あえて、高齢者とは言わない。30歳からこんなセリフを聞くからだ)
使いこなす、と言う言葉は呪縛だ。
なんせ「ここまでできたら使いこなせた」という定義がないから。
たとえば、Windows98を使っている人がいる。
もう調子が悪くて悪くて仕方がない。
「でも私、これも使いこなしていないのに、新しいのを買っても使いこなせないから、私とおんなじでおばあちゃんでいいのよ、パソコンも。」
と仰る。新しいものを買ったら、出来ることも増えるのに。と思う。多分、今のままではずっと使いこなせない。
その一方で「私、自分のケータイすら使いこなしてなくって」と言う方に話を聞くと「メールでしょ、電車案内でしょ、それくらいしか使ってないのよ」
と、仰る。私から見たら「使っているじゃあーりませんか」と言ってしまいたくなる。
皆さんは何まで出来れば満足なのだろうか。
携帯が魔法の杖に化けて王子様とかが迎えに来たら満足なのかな。
「使いこなしたい」という気持ちは好奇心の広がりだからとてもいいと思う。上向きで、大きな声で「使いこなしたい」と言うのはとても素敵だ。
一方で「使いこなせない」というのは、あまり聞いていて気持ちの良い言葉ではない。
だって、使いこなしの神様は、待っていても呼びに来てくれないから。
使いこなす、ということは、
・その商品やサービスで出来ることが解っていて
・それを使っていて
・超楽しい!と思う気持ち
だと思う。
これが揃わなければ、「使いこなす」には永遠に至らない。
その認識が間違っていてもいい。出来ることの内容の広がりが狭くても、満足感を得るためには、自分が決めた定義をクリアし、なおかつ楽しくなくちゃだめなんだと高齢者を見ていて思う。
なので、よく高齢者から出てくる
「使いこなしていないから」という言葉に惑わされちゃいけないな、と思う。
新しいものは全ていいものだとは思わないけど、
使いこなしていないから新しいものに挑戦しないと言うのは
老化街道まっしぐらな気がしてならない。
そもそも、自分の脳味噌だって全く使いこなしていない。
使いこなしていないからと、考えるのをやめてはいけない。
ただ、中高年・高齢者には「諦めたらそこがゴールですよ」とはいうものの、サービス提供者側の若手にはそんな精神論は通じない。
だから、中高年・高齢者が「使いこなせないからこのサービスを使うのは無理」とか「これを使うのはまだ早い」と思わない為のコツをちょいとばかし。
それは、
その成果物がシンプルであること。
そして、少し、夢が広がること。
それが高齢社会の、機械とかサービスとかのあり方なんだと思う。
そうでなければ、新しいサービスは受け入れられないな、と思った。