青春供養
結婚式に招待された。
結婚式に出るなんて数年ぶりである。
数年前に着ていたドレスは、まだ着られるのか?
クローゼットから引っ張り出す。
ノースリーブの、ちょっとお値段が張った、当時の私の最先端のおしゃれなドレス。
着て鏡をみると、何とも言えない物体がそこにいた。
まず、腕が、たるんでいる。
ノースリーブが似合わない。
お腹が出ている。
シュっとしたデザインが似合わない。
背中が丸い。背中に肉がつきすぎている。
服がかわいそうだ。
ああ、歳をとった。
別に年を取ったことは、悲しむことではなく、ただ、事実として年を取ったなと感じた。
よく見たら、クローゼットには、もう数年着ていない服ばかり溜まっている。
コロナ禍になってから、私のおしゃれ度はどんどん減少し、
春夏秋冬の制服みたいなのを設定して、1年間、ほぼそれで回している。
クローゼットの中には着られなくなった「がんばっておしゃれていた時期」の私が眠っている。
昔、学生時代の20歳のころに、事務系のアルバイトをしていた。
私がその部署の初めての学生だということで、いろいろやさしくして頂けたのだが
その中で超仕事のできる、切れ者の女性部長が
「私が若かったころの服、あげるわ。悪いものじゃないし、マミちゃんだったら似合うと思う」
と私に服をくださった。
見ると、レースの服。当時は原色大好きな学生だったし、フリルなんて着たことがないので「これはちょっと着れない…」と思ってしまった。
すると、その顔を見て察したのか「いらなかったら、捨ててもいいから」と彼女が言った。
それを見ていた社員さんが「捨ててもいいものくれるなんてちょっと信じられない」と憤慨していた。
そんなやりとりが25年前のこと。
今、数あるノースリーブのお気に入りの服を、もう着ることはない。
痩せればいいじゃないかといわれるかもしれないが
着たら、自分の好きな服じゃなくなる。イメージを自ら崩壊させる。
いい思い出のまま、とっておきたい。
着ないのはもったいないから、若い子にあげたい、
と思った瞬間に、部長を思い出した。
ああ、彼女は、青春を私に渡したのか。
捨てるようなものじゃなくて、捨てられないものだからこそ、人に渡した。
私がそれを大切にしようが、しまいが、いいのだ。
少なくとも、自分は、誰かに渡した、その事実が大切だったんだと、自分が放棄したのではなく、青春を捨てなかったことが大切なんだと、突然思った。
突然彼女を思い出して、きゅんとした。これが、青春か。
こわーい部長だったけれども、フリルのブラウスが、彼女の青春だったんだなと。
じんとした。
ああ、青春だ。みんな、青春だ。
青春をクローゼットに抱えて、クローゼットから解放できずに溜めている。
不健康だ。
私たちは、青春のしがらみに囚われている。
服を見て、いろいろなことを思い出して、甘酸っぱかったり、うるっときたり
さまざまな過去を思い出す。
クローゼットに溜まっている青春の塊は捨てるのは惜しい。でも、溜め続けるにはいかない。
もし、昔の服を上げられないのであれば
どこかでお焚き上げできないかなと思った。
青春供養。
断捨離じゃなくて、甘酸っぱい過去を昇華させたいものだ。
と、思った。
すごい久しぶりのコラムがとてもポエミー。そういう年ごろなのかも。黄昏時の44歳。