大人になるということ

ブログ書きすぎと指摘されておりますモリマミコです。
私もそんな気がします(笑) マイペースにがんばっていきます。
さて、「大人になる」とはどういうことでしょうか。
Googleで調べると、いろいろ諸説あるのですが、
年齢だけで「オトナ」と定義するのであれば、まぁ誰でも大人になれるのですが
年を取る/取らないの、決定的な違いはなんだろうと考えるわけです。
昔、いつになったら東京弁が名古屋弁になって、大阪弁になるんだろうと疑問に思った事があり、その時はあまり何もしなかったのですが(青春18切符で確かめたのですが、解らなかった。でも、神奈川は東京弁じゃないし、静岡は静岡弁があった。)
今、私が20歳と96ヶ月を迎えようとして、それが20歳と192ヶ月になったら、何が変わるのだろうか。反対に、私が20歳だった頃と、今と、何が違うのだろうか。年齢以外に「老けたかもしれない」という不安はどこにあるのだろうか。「美しく年を取ろう」って、肌のツヤやハリ以外に、どうやって美しく年をとればいいんだろう?大人になるとはいったいなんぞや?


本音を言わない、建て前を話す、「実感」としては、車に乗れるとか、お酒を堂々とのめるとか、タバコを堂々と吸えるとか。でも、その定量的項目が「大人」の指標だとしたら、「大人になるとは年を取る事」。以上。
でも、そうじゃないですよね。
こどもと、おとな。何が違うのだろうか?
毎年、毎分、毎秒、年を取っているのに、それが1年、10年、30年違うだけで、どこから差が出てしまうんだろう?
妹の友人を見て「あら、○○ちゃん、大きくなって~~~~!」と発言をした私にとって、○○ちゃんは「体が倍増した」と言う点では(太ったと言う意味ではない。10年ぶりぐらいに会ったのだから、倍増。)大きくなったが、それは、20歳の彼女の10年後には多分、言わないだろう。もう大きくなる事は無い。
つまり、定量的項目は、「大人」を測る指標としてはなんか違うんじゃないの?ということ。すっごい前置きが長くなった。
では、大人になったということを「何かをなくした」「何かを得た」という角度で考えてみましょう。

と、話は続くのですが、延々と長くなってきたのでぼーんとはしょります。
私は、大人になるとは「怖い」と言う事を知ることだと思っています。
経験を積み重ねた事も、学習していなければ、正確な「積み重ねた」という定義には当てはまらない。
そんな中で、大人は経験を積み重ねた人たちだと仮定したら
大人は経験の中から、「怖い」「しちゃいけない」ことを学ぶ。
ウェブの操作もそうだ。
「怖い」ことは次に繋がらない。
「怖い」と思ったら、次に進めない。
つまり、シニア層がウェブを操作できないのは、根底に「怖い」という気持ちがあるからだ、と私は思っている。
もしかしたら、アンチエイジングが流行っているのも、怖いからなのかもしれない。恐怖の消費。それもありだ。
「頭固いなぁ」「なんでできないねん(なんで大阪弁やねん)」と、若者が思う、大人。
「自分達はそうならないよぅ」と思い込んでる若者達。
でも、なるんだ。確実に。人は、失敗からいろいろなものを得ていくから。
ということで、シニア層の消費行動云々、ウェブ操作云々、すべて、シニア層の根底の気持ちに気づいて欲しい。
→ここから余談。
70歳の方が免許を取ったらしい。それを聞きつけたマスコミの皆さんが、90歳のその方のお母様に取材にいったらしい。そのときにお母様が言った言葉。「若いってのは無茶が出来ていいねぇ」そういうのって楽しい。やっぱり、年齢は相対的に取るって事だよ。>水野くん。
→余談追加
私はスーパー子どものまま大きくなってきているのですが、自分の中での大人の尺度を昔から持っていました。その一つが体の大きさ。小さい頃めちゃくちゃ小さかった私は、大きくなったら大きくなるもんだと思っていた。ところが、思ったより大きくならなかった。それを高校で発見したときに、私は大人になるタイミングを失ったのだと思った。怖い、を学習するのは失恋した友達の話を聞いてから。まぁ、恋愛については学習能力が低いさ!というのが私の持論だったのだが、色々聞いていると、みな学習している。(していない部分もある)私が大人になれないのは学習能力がないせいだ。鶏だから、3歩歩くと忘れてしまう。ああ、どうしよう。ただ、学習は記憶力とは違う。記憶力が良くなる本は沢山読んだが、学習能力はつかなかった。うーん。