情報との付き合い方

先日、某社の新規事業開発室のS氏と呑んでいた。
「最近の若い子って」という話になった時に、新聞で読んだり、ネットで見たりした話を、さぞ知ってるように話す自分に驚愕した。
「とかって、みんな言ってる(主語でか!みんなって誰!?)けど、本当かどうかは解りません」と注釈を付けてから、実際、若いうちのスタッフとか、若い友達とか、妹とか(うちは7歳離れているので)、その周りは、マスコミで言われているような若者じゃない事に気づいた。
先日、某大で授業のお手伝いをした。「おお、ピチピチの男子大学生とおしゃべりできるチャーンス!」と喜んでいたけど、その横で、うちの大学生スタッフが冷ややかに笑っていた。「マミコさん、ここにもたくさんいるのに。どういう夢を見ているんだかw」
女子高生とか、男子大学生とか(男子大学生は女子高生のブランドにとってもとっても負けるが)「世間一般」のフィルターを通すと、何時もと違ったものになる気がする。
そういえば、私の頃は女子高生ブームになりかけのころで、その頃高校を辞めてジャイアンツの追っかけをやっていた私は異端児オブ異端児なんだろうが、世間で言われているほど、すっごいギャルはすっごい多かったわけじゃない気がする。
でも、そういうギャルの方が話題になりやすい。今時の若者で片づけやすい。
ニュースはニュースになる事しか報道しない。新聞も、テレビも。書きたい記事に合う事例を探して来て、撮りたい画像を取る。だから、ニュースで見た事は、誰かの脳内を投影しているだけなんだ。
#新聞社にも、雑誌社にも、テレビ局にもお友だちたっぷり。ごめんなさい。
随分前、某め×○しテレビが撮りに来た時、解っていたけど、撮影30分、放映10秒で、一番シルバーらしい、みんなが「えええ。すごい、おばあちゃん、がんばってるぅ」と言いそうな、本当にかわいらしい方が頑張ってらっしゃるシーンだけが写っていた。たぶん、ディレクターさんの中で、一番絵になりそうだったんだろう。そう、報道は「絵になる事」が中心。私達は、それに流されちゃいけない。
その横で、おじさんが普通に?パソコンをやっていたが、それは普通すぎて、絵にならなかったんだろう。全く放映されず、おじさんがちょっと拗ねていた。(私だって喋ったのに、1秒たりとも映んなかった!テレビに向かってテレビ局の悪口言っちゃったからだ!)
新聞に出た時も、そうだ。「こう言うイメージで撮りたいので、こう言う風にしてほしい」と言われているのだから、そうなるようになって当然である。でも、新聞記者の友達も、雑誌記者の友達も、いろいろな事を考えている。いろいろな人に会って、いろいろな事を見て、いろいろな事を感じて、彼らが作った像を伝えている。
だから、ややもすると、私も、こんなに近くにシニア層が沢山いるのに、メディアを信じてしまいそうになる事がある。周りに1000人のシニアがいて、なのに、「だって新聞では今時のシニアはこう言っていたよ」と、言ってしまいそうになる。それはテレビや新聞、雑誌だけじゃなくて、インターネットも。
メディアはちょっと恐い。
見た物を、自分の意見だとすり違えそうになるから。
全てに疑ってかかれと人は言う。
でも、なにもかにも、疑っていると疲れてしまう。
昔、インドで、騙されていた男の子を、(50ルピー(200円位)位のネックレスに1000円払おうとしていた)私なりの親切心で助けた事がある。
私は良い事をしたと思っていた。「HAHAHA!疑う事を覚えるんだぜ!インドで助けてくれるのは自分自身だけさ!ジャパニー!」などと、偉そうにしていた。
そうしたら、彼は言った。「余計な事をしなくても良い。君が、僕を助けたつもりにならなかったら、僕は、彼と友だちになっていて、楽しい取引が出来ていたかも知れないし、余計な真実を知らないで、気持ちよくあれが買えたかもしれないのに」と。
インドの夏は、とても暑い。喧騒に、何も考えたくないと思う気持がよく解る。騙されて、世間とつながりが持てるなら、騙されていいと思ってしまう事もあるだろう(私も2回目までのインド旅行は本当にまあ、いろいろ騙されました。おかげで強くなったけど!)
情報に対する考え方を見ると、あの頃のインドを思い出す。
シニア層は、欲しい物がないんじゃなくて、自分を考えさせずに、適度に脳への刺激があってなんだか、気分を高揚してくれるものを求めている。
シニアビジネスを考える人は、テレビや新聞、ネット、雑誌の中の作られたシニアを見て、シニアはああだのこうだの思ってしまう。
まあ、つまりそういうことだ。
まず、ビジネスをするならば、町へ出よう。グループインタビューで終わらせるんじゃなくて、きちんと、一人ひとりに聞いてみよう。
違うとか、無理とか、あきらめない。
これは、最近、とってもあたまでっかちになって、何も行動していない自分に対しての戒め。