大人になると間違うことが一番のストレスになるのではないかという仮説
タイトル通り、としか言いようがないタイトル。
数学教室で、大人になればなるほど=年を取れば取るほど、最初の1歩が踏み出せない。間違えたくないから。
パソコン教室で、同じく、年を取れば取るほど、関数を思い出すまでずっと手を止めている。ピボットテーブルの行と列の理解を手を動かさずにしようとする。
やってみればいいじゃない。間違ったらやり直せばいい。それは、私の言い分である。
大人は言う。「間違っていたら嫌だから」「わからないから手を動かせない」
間違うことが、ストレスになっている。
間違うことは、なぜ怖い?
子どものころ、「間違うことは怖くない」と何度も言われた。つまり、怖いんだ。
なぜ、間違うことが怖いのか。
答案用紙についたバツが怖い。
なぜ間違えたのと言われても、なぜ間違えたのかもわからないし、正解がわからない場合はもっと怖い。間違えた理由を聞かれるのが怖い。
私は、誰よりも受験回数が多いと自負しているが、間違うことなんて慣れなかった。間違いは怖い。なぜならば、そこで自分の人生が決まるから。
しかし、その恐怖と戦いながら、前よりは間違えることに躊躇しなくなった気がする。人は間違えて当たり前だと思う。別に怒られても怒られなくても、それは自分の間違いだから、私の問題である。特に勉強においては。
だから、小さな間違いを延々と指摘されると、もちろん反省はするけれども、それで何か変わらない以上、早く直した方が早く解決するのになあと思う。
人は、間違えるものだ。以上。
人間である以上、ミスは仕方ない。私が教えるときのスタンスは、それである。間違うことを恐れて前に進まないくらいならば、100回間違って経験値を積んだ方がいい。1歩も動けないより、そちらの方が学びが大きい。
しかし、大人になると、「間違えてもいい」なんて言われることはなく、小さなミスを指摘されて動けなくなったり、答えがわからないと手が動けなくなったりする。
大人は、間違えそうなことに対して、ものすごく動かない。
動かないことで、自分を守る。間違えることにストレスを感じる。
そのストレスにより、誤読や思い込みが生じているのではないかと思う。
「間違えるものですよ、人間だもの」と声をかけ続けたらどうなるのだろうか。「次間違えなければいいのですよ」という一言がセットになったら2回目からまたストレスになるのだろうか。成長のない間違いはよくない。間違えないための努力が見えない間違いはヨクナイ。しかし、間違いを恐れる余りに何もしないようになるのは違うのではないか?
と、とりとめもなく、思ったことを推敲もせず書き連ねる。推敲していないから怒らないで欲しい。推敲していないことも含めて、怒らないで欲しい。笑。