責任不在/対象不在

色々会合に出る。
「うちは高齢者向け」かつ「障害者向け」と仰る方がいる。
確かに、障害者の多くは高齢者であると言う。
そこのところも、実情はちょっとハテナマーク。そういえば、私の周りのシニア層は障害者手帳を持っている人が多い。持っていると、色々な割引を受けられるのもあるから。それはいやな意味ではなく、取れるならとったほうがいいのだ、という風潮。私も、いろいろ話を聞くまでそうだと思っていたし。
ウェブユーザビリティは高齢者/障害者でも使えるように、という。
しかし、いっている人に、伝えたい相手は見えない。
誰に使って欲しいのか、という気持ちが伝わらないこともある。
そのことを告げる。
「僕はわかるんですよ。ただ、他の人がわからない」
「作るのが社内の人間で若いから、難しいことに気づかない」
アクセシビリティを考えているのは一種の企業パフォーマンスにも見える。だって、実際、「考えてます」という会社のウェブサイトをつかえていないシニア層がいるんだから。「誰もがアクセス可能である」というホームページが、実は見て欲しい人が見れないんだったら?
言葉だけが先行していて、誰も対象者がいない。だから、誰も責任を負っていない。
誰もが、夢みる高齢者/障害者という像を相手に、自らを創りあげているように見える。
聞き取りにくい読み上げソフトを導入していることがステイタスになっている。
そして、高齢者はそのサイトとを使えない。「アクセシビリティに気合入れてます!」と言う某社さんのサイトを高齢者の人に数名見せたが、評判はよろしくない。「よくわからない」
「文字の大きさ」があるのにきづかれない。これって、デートの時にせっかくオシャレしたのに気づかれないのと一緒な感じ。見ていて、切なくなる。一生懸命お化粧したのに、「今日すっぴん?」と、本当に階段から突き落としたくなるようなセリフを平気で笑顔で言っちゃうような男性を見ているようで涙が出る。ああ、涙で前が見えないよう。


結局、対象者も、責任者も不在のまま、言葉だけが先行している。
昨日知り合った人が「私、○○について解らないの」と仰っていたので
「うちの教室ではそんなことが解らないのは日常ですよ」と申し上げましたところ
「やっぱりよかったー!もりさんのところでもそういう人が多いのねー!私だけかと思っていた」
わからないといえない人たちの声はまったく吸い上げられず
解らないだろうと思っている解っている人たちの意見で、物事が創りあげられていく。
わからない人はわからないことを混乱させるだけなのでどうしようもない
(解っていないインストラクターの説明ほどへたなものはない。)
しかし、わかる人は解らない人の気持ちをわからない。
当社の面接で必ず聞く質問がある。
「パソコンくらいわかります」と来た人が、説明がどれほど難しいかをわかる瞬間である。
インストラクターとして入ってからもずっと胃痛の連続だ。
わからない人にわかってもらうのがどれほど大変か。なめてると痛い目にあう。
誰でもできることじゃない。「できる」と過信している人がどれだけ多いことか。「初心者くらい教えられますよ」って、そういうことを言った人が、教えられた人は見たことがない。初心者ほど難しいものはない。あ、ただ、機械的に教えるのは誰でもできる。でも、うちでは「教える」=「伝わる」なので、伝わらない言葉は、ゴミと一緒だ、といつも言うからみんな胃痛になっちゃうのか(笑)
と、話が大分ずれたのですが。
つまり、責任者も対象者もいないことを話しているのは、誰にも伝わってないということなのであーる。