できるとできないの線引き
優秀なナースがいるとシステムがなかなか改善されないという話
「優秀なナース」の定義はどこでも同じで、「目の前の患者が必要としているものを、あらゆる障害を乗り越えていち早く提供する」こと。取り替えるべきシーツが不足していれば別の階に走って行って調達してくるし、新米のナースのミスにはいちいち噛み付くこともなくそのミスを取り繕う。そんなナースたちにとっては、その手の「不具合」や「障害」は避けられないもの。「そんなものにいちいち文句を言っている暇があったら、患者の世話をするべき」というのが彼らの考え方だ。
調査によると、ほとんどのナースは一日の30分から1時間をそんな「障害を乗り越えるための工夫」に費やしており、そのために残業をしたりすることは日常茶飯事。彼らは、口をそろえたように、「大きな問題があったけど何とか患者さんには迷惑をかけずに解決することができた」日にもっとも充実感を覚えると言う。
優秀なユーザーがいると、なかなかウェブサイトが改善されない。
優秀、というよりも、臨機応変、ということを知っている。というか、きちんとウェブの概念を解っている(たとえば、基本的なところだとクリックすれば他のページに飛んでいる。そのページは「リンク」されていて、「次ページ」ではない、インターネットはどのパソコンからでも見ることが出来る。みんなサーバに見に行っているんだよ。などなど)場合、ウェブサイトで苦労することなんて、見た目の問題しかないと思う。素材サイトでEnterが見つからなくて困ったり、マウスが滑ってへんなサイト開いちゃったり。昔だと、goo.co.jp開いちゃったり(それも学校で)でも、対処法を知っている。対処法を知っているというより、焦らないで対処することが出来る。(Goo.co.jpのときは悲鳴上げましたけど。それがさらに目立つ結果に・・・)
しかし、まあ、ウェブサイトの使いづらさはちょっと置いといて、例えば、少しのカスタマイズとか、自分なりに使いこなすこと、苦労して自分の好きなページを見つけ出すこと、Tipsを発見すること、そういうことに生きがいを感じる。どうして他の人がそれをなんかアドレナリンが煮えたぎるほど楽しいと思えないのか解らない。そういう発見が出来た日、自分でなんか見えちゃった日なんか最も充足感を覚えると思う。
そういう人たちは、使えない人の気持ちを理解できない。「だって、使えばいいじゃない」。それは、本当にマリーの世界だ。「どうして?パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃない?」ラスカルッ!いや、オスカルの間違いだ。
使える、優秀なユーザーさんたちでは、難しい。だから、まあ、うちみたいなところがあるんだが。
改善を阻止するのは優秀な人たちだけではない。
問題点に気づかない人たちもである。
ウェブサイトを使えます。というシニア層に出会って、実際に操作してもらうと、色々な障害に出会っている。しかし、彼らは障害に会ったことに気づかない。彼女たちは「なんだか、遠回りした気もするけど」と口を揃えて言う。
「まあ、こういうのはできなくても当たり前だし」「私にはきっと難しいのよ。」「そういうことはねー、娘がやるから」
例えば、タスクを提供する。できない。しかし、彼女たちは全く違うものを勝手に答えとして引き出してきて「これが正解でしょ。私できるわよ」とも言う。
僕は出来る。というおじ様がいた。
そんくらいできるさ。
ユーザーテストのときは、大変だった。
頭が頭痛、というくらい、目の奥からズーンとした。
筆者は「だから病院の経営陣は、ナースの日々の活動に常に近いところにいてどんな問題を彼らが解決しなければならないのか、どんなところに余計な時間を費やしているのか観察し、積極的に手を差し伸べてシステムを改善しつづけなければならない。そして、他人のミスを指摘することが個人攻撃にならないような文化を作り、誰もがオープンに自分や他人のミスを語り合える場を作るべき。」と結論付けている。
そう、どんなところに余計な時間を費やして、どんな答えを勝手に持ってきて「正解」としているのか、作り手は積極的に手を差し伸べてウェブサイトを改善し続けなくてはいけない。それは、ユーザーからの攻撃ではなく、自然な質問なんだと思う。それが商機なんじゃないかと。