できる、使えるってなんだろう?

一息ついて次の仕事に取り掛かろうというときに「使える」という言葉がどうしても頭を離れてくれない。
私がパソコン教室の運営を始めたのは2001年だった。
その前までは「リコメンデーションエンジン」を扱う一営業マンであったわけだ。
※リコメンデーションエンジンとはインターネットのお店の中で「あなた、これはどうですか」とオススメしてくれる便利サービスです。アマゾンとか、楽天にはいっているのがリコメンド機能です。
色々あって、「使える人々」の中から、突如「ちょーつかえない」人たちの中に飛び込みました。
「ボク、インターネットを基礎から学びたいんです。少しできるんです!」と聞いたときには「インターネットを学ぶってなんじゃい(くらくら)」と眩暈がしてました。「インターネットを基礎から勉強するって何?」と。「そんなの、見てればうまくなりますよ」と「うまい」の定義も解らず解説しました。今考えると恥ずかしいですね。解らない人にとっては見てろと言われても、見ればうまくなるといわれても解らないものなのです。それを実感するのに半年近くかかりました。
「なぜ彼らはこんな簡単なことに基礎からやりたいというのだろう」「ただあるものをクリックすればいいだけだし、気になる言葉を入れて探せばいいだけじゃん。」とずっと悶々としていたのですが。
それが、「ものすごく、できてる人の視点でできない人を見ていた」と気づいたのが11月のこと。「インターネットは彼らにとって難しい。」でも「インターネットができる人が偉いわけじゃない」。どこかに(当時の)インターネットができる人にとってできない人は「インターネットすらできないのか」という視点があるような気がしています。それは子供に「1週間IT講習会に通ってインターネットもできないのか!って息子に言われてね」というお母さんが減らないのと同じような気が。
「たかがインターネット」とできる人には思うでしょう。さっきの話の続きだと、料理と一緒「たかが味噌汁」「たかが煮物」でも、たかが煮物を作るのにレシピを見ながらじゃなくちゃ作れない人だっている。たかが梅酒を漬けるのに袋に書いてある分量どおりでないと気がすまない人もいる。たかが、梅酒じゃないか。たかが、インターネットじゃないか。たかが餃子じゃないか、たかが、きりたんぽじゃないか(いいオチ見つからず)
私が今でも敬愛する某醤油会社を就職活動で受けたときには(まさかIT関連に進むと思わず)、商品企画書という紙の中で「キャップで計量できるようにしましょう!」といったところ、面接官の方が「いいアイデアだけど、イマドキの若い子は、何もかも測らなくちゃ料理すらできないんだ・・・」とつぶやいたのがとても印象的でした。計量スプーンがないと料理ができないというのは多分、想像ができないんだと思う。(私は大雑把なO型なので、計量スプーンなんて使わない。)
60歳からの男の料理教室に見学に行ったときには、「うちの奥さんの料理は大雑把で落ち着かない」と仰っていました。そういえば私が昔通っていた料理教室、たまたまおなじテーブル(作業班)だったおじさんは「すみません、しいたけの飾り(上の切り込み)の角度は何度で包丁を入れたらいいんでしょうか」と真剣に質問し、先生が声にならない怒りオーラを出していた。そういうもんだ。当人にとっては笑い話じゃない。私は鬼だから帰って直ぐに皆と大笑いしたけども(ブログにも書いたし)。
不安なのだ。正しい事を、皆が、知りたがっている。なのにできる人にとっての「正しさ」とできない人の「正しさ」は見当が違う。しいたけの飾りの角度なんてどうでもいいじゃん。きれいであれば。でも、「正解」を求める。正解を求めるから、正解以外の答えが返ってきたときにパニックに陥る。そして、使える人から見たら、そのパニックに陥った姿を見て「使えない人は」という発言をなさる。
そのパニックになって使えていない様は明らかに表層的な問題だ。結果として、パニックになっている。じゃあ、彼は何を求めていた?彼女は何が出ると思っていた?それを解ってあげないと「使える」ものはできない。使えないってことが、どういうことなのか。
使える人にとって、使えない世界と言うのは想像もつかない。
その「使えないということ」を解って欲しい、とは言わない。時間がかかりすぎる。
でも、「解って当然」と思うのは止めて欲しい。システム関連の人が「使えない世界」を想像するときに、そのことが本当に使えないのかどうか、勝手な思い込みで「使えない」と思い込んでないか、もしくは「これは常識でしょ」「これは使えなきゃおかしいよね」と思い込んでないか、もう一度確認してくださいまし。ああ、でも、確認も難しいですよね。不安な気持ちに共感してください。それだけでも使いやすさはぐんと変わる。