幸せは推測するものではない
「高齢者にとっての幸せってなんですか?」と突然、聞かれた。
答えに窮したので、「すぐには答えられない」と回答しましたが、私たちも多くのシニア・シルバー層をハッピーにさせるために日夜色々なことを考えております。根本的な解決ではなくても、パソコン教室でパソコンという道具を通じて色々なものを知ったり、気づいたり、そういう「知的ワクワク感」を提供しようと、思っております。
ただ、それは根本的な解決ではありません。パソコンと言う便利な道具を知ってしまったが故に、操作の難しさに直面する羽目に陥ったりもするわけです。例えば、恋愛で言うならば出会えた幸せと出会ってしまった不幸せは紙一重でありますから。
まあ「幸せって言葉が定義できない以上、それは回答できないですよ」とうちのスタッフにはさっくりと言われましたが、確かに非常に微分的な幸せはあっても、そこにベクトルが発生するとその時間の流れが存在してしまう幸せについてはなんともいえない。ちなみに、我々は「眠るとき、お布団に入る前にくすっと笑ってしまう幸せ」を提供しようというのが社訓?ですが。
ところで、そんな命題を掲げられ、仕事もひと段落着いたのでふらふらとネットサーフィンをしていたところ、以前良く買っていて今は余り買わなくなってしまった店に久しぶりに行き着きました。何かが変わったなぁと思っていたのですが、じーっと見ていると、そことの「幸せ」がずれてしまったように感じたのです。
どういうことかというと、そのお店には主婦の方がウェブマスターとして入ってきました。すると、全体的に「主婦的」なお店になってしまったように感じたのです。私はその店から甥に貢いでいたこともあり、今までのようにちょっと喜ばれるお店、というよりは主婦の視点で嬉しいお店、というのにシフトしてしまったように感じられて、なんとなく指が遠のいてしまったのでしょう。
それがいいことであるとか、悪いことであるとかではなくて、「そういうものなのかなぁ」と、しみじみ感じ入りました。
世の中には高齢者がきっと喜ぶサービスを色々なところで量産されています。
私のところにもしばしば連絡が入ります。相談に乗って欲しいというのもあれば御社の生徒さんに告知してくださいとか(ものと内容と付き合いによりけりです、基本的にはしてません。)「きっとこういう講座があれば高齢者のかたがたが喜ぶと思うのです!」と(え、それってどの高齢者?データの中の?それとも2次元の?「萌え」な感じの?)と思ってしまうようなセールストークも舞い込みます。
私たちも日々日々たくさんのシニア層に接し、愉しみ、発見の毎日ですが(一部の方には最近疲れてる?と指摘されてますが、吸い取られてるだけです(笑))幸せや、彼らの反応することについては接してみて初めて気づくことが多いのも事実です。
最近、様々な調査を請け負わせていただいておりますが、そのたびに新たな発見が生まれます。数字データでは解らない行動の理由が見えてきます。何を幸せに感じたのか、どうしてそうしてしまったのか、行動とその理由をヒアリングしていると色々面白い発見が見えてきます。
つまり、何がいいたいかと申しますと、幸せは第3者が推測するものではなく、ましてやあなたの幸せがその人にとって本当に幸せかどうかなんて解らなくて、(姉妹とか、恋人同士でも解らないのに)、「これをやってあげるから、あなた幸せでしょ。」というシニアビジネスのスタンスをそろそろ終わりにして一緒に幸せについて本気出して考えてみませんか(Byポルノグラフティ)。というお話でした。
ということで、ご質問をいただいた方々へ、私の簡単な考え方をお伝えしました。以上。