年を取るとどうなる?
打ち合わせの席で、時折聞かれる。
「モリさん、僕は年を取ったらどうなるんでしょう。」
私は占い師ではないし、人生相談役でもないので、正直解らない。
自分でもどういうシニア層になるかはわからない。今の運動のしなさ加減だと60歳くらいになると足腰にガタが来て、足腰にガタが来ると出歩くのが億劫だからまあ、家の中にいるだろう。新しいことに挑戦しよう!という気概を持っていられるだろうか、年をとって、「できないできない、私は年だから」を繰り返すと若者から引かれるので、できればそういうことを言わないようにしよう、「しちゃいけない高齢者像」や「なりたい高齢者像」を考えながら、一歩一歩老化に進んでいる。若者曰く「僕はきっと70歳になっても新しい人たちと交わっていると思う」というが、どうだろう、と冷静に考える。たぶん、今の60歳だって、そう思っているはずだ。私が不安なのは、今のシニア世代には演歌があってカラオケで歌いやすいが、私たちの世代はアップテンポの曲ばかりだ。高齢になったら歌えない。テンポがついていけない。「あのコロはあれが歌えたのに」といって歌う歌がなくなってしまうのではないかと常に思っている。
年を取って丸くなるんじゃないか、とか、年を取ると聖人になるんじゃないかとか、仙人になるんじゃないかとか聞かれることがある。しかし、実際に毎日毎日シニア層に会っていると、そうかな???と思うことのほうが多い。
「私って、本当に気が使えるのよね。」と某シニア層が言う。「私って不思議ちゃんよね」という女性ほど怖いものはないが、「私って気が利くのよ」というシニア層ほど怖いものはない。ご本人の評価と他人の評価が違うことは多い。
自分のことは意外と自分で見ることが出来ない。昔、小学校のころ、シスターが言っていたことに、「人間には5つの側面がある。自分しか知らない自分、他人しか知らない自分、誰も知らない自分、誰もが知っている自分、そして神様しか知らない自分。」(クリスチャンの学校だったので。)自分しか知らない自分は得てして自分を飾るし、他人からの評価を得て、まるで思春期のように「本当の私はこうなのに」と思うことも多いのではないかと思う。
自分は周囲に気を使うのよ、というおばちゃんが、レストランで割り込みをしていたり、最近の若い子は、とぼやいているおじさんが電車の中でがなりたてるように電話をしていることもある。年を取るからといって聖人君子になるわけじゃなし、すばらしい人になるわけでもなし、長老になるわけでもない。普通に一人の男性を巡って言い争いをすることもあるし、肩書きで見栄を張りあうこともある。もちろん、ものすごく気遣いが出来て、気持ちのよい人もいらっしゃるが、所謂年を取って「鈍感力」が発達するのかもしれない。
つまり、何をいいたいかというと、シニア層=年を取って丸くなるとかいう神話とか、成熟したとか言うサービスを提供していると痛い目にあいます。ということ。彼らは、私たちの未来なんですから。しかし、ご本人たちが気を使っていると思うこともありますので、そこは気づいて、「お気遣いありがとうございます」と先回りすることも重要で。
しかし、シニアビジネスをしていて、私たちはなるべき、ならないべきシニア層を見ることができる。核家族化が進むとそれが解らないんじゃないかと。私もシニアビジネスを始めるまで、おばあちゃんは聖人君子だと思っていた。「はい、おばあちゃん、よくできました」という世界が通じるんじゃないかと思っていた。でも、実際はそうじゃなかった。年を取ったら気前よくなろうとか、一歩引いて動こうとか、なんとなく、目指すものが出来てきた。目指すものがなかなか身近にない今、今の若者がシニア層になったらどうなるんだろうと、時折思う。